こちらには,河田先生の研究室出身者からの追悼文を掲載します.
河田脩二先生の教え子の1人として
北陸大学 竹井巖
河田脩二先生は、6年前から血液関係の稀な病に罹られ、当時利用できるようになった新薬を用いて治療されてきましたが、今年12月15日に85歳で逝去されました。眠っているような安らかな顔をされていたのが印象的でした。
私は、1977年に修士課程でご指導をお受けして40年余りのお付き合いになります。私の現職場への就職には、河田先生から少なからぬお力添えをいただきました。
河田先生のご指導を端緒として、私は氷関係の研究者としての道を歩いてきました。そこで感じることは、河田先生の業績の中で氷物性関係のものは、純氷の誘電的性質の他に追従を許さない精緻な測定結果の提示とKOH添加による氷の72K秩序無秩序相転移の発見という、2つ仕事が国際的に高い評価を受けていることです。退職されて20年を経過しましたが、学会等で氷の誘電物性関係の発表があると、河田というすごい先生がいたと言及されることがあります。
もちろん、人はいつかは寿命を全うする定めですので、河田先生もその例外ではないのですが、葬儀が執り行われて骨壺に収まるという経過のなかで、私は何度か涙をとどめることを抗えませんでした。河田先生への思いは、縁ある人それぞれなのでしょう。
河田先生のご冥福をお祈りします。
河田先生にはいつでも会えると思っていたのです
金沢大学物理学同窓会 幹事(広報担当) 宮田 敬太郎
私は1991年4月から1993年3月まで,修士課程で河田先生の研究室に在籍しておりました.今現在,私は地元である金沢に住んでおります.辰巳用水遊歩道沿いに家があり,そこから河田先生のご自宅へはそれほど遠くありません.河田先生のご自宅へお邪魔したり,辰巳用水遊歩道を散歩しているときにランニングをされている河田先生に遭遇したりしました.夏場だと辰巳用水沿いには蛍が数多く飛び交います.夜,辰巳用水遊歩道に蛍を求めて歩くと,蛍の数を記録している河田先生に遭遇することも多々ありました.
そんな訳で,私は河田先生にはいつでも会えると思っていたのです.
私は物理学同窓会の幹事を務めていることもあり,河田先生のお通夜と葬儀をお手伝いさせていただきました.また,河田先生の奥様からは故人を偲びたいということで,お通夜やご葬儀の後のご親族のお食事にもお招きくださいました.お通夜の際は竹井先生,岡本先生とともに,ご葬儀の際は竹井先生とともに同席させていただきました.
お通夜やご葬儀の際の物理関係の参列者をこちらに記します.お名前の無い方がいらっしゃいましたら,ご指摘ください.
現役教員
青木 健一 先生(大学院自然科学研究科長)
阿部 聡 先生
佐藤 政行 先生(物理コース長)
末松 大二郎 先生
松本 宏一 先生(極低温研究室長)
古寺 哲幸 先生(同窓生)
藤竹 正晴 先生
藤下 豪司 先生(特任教授)
鎌田 啓一 先生(特任教授)
退職教員
樋渡 保秋 先生(元理学部教授)
大橋 信喜美 先生(元理学部教授)
木村 實 先生(元理学部教授)
直江 俊一 先生(元工学部教授)
安達 正明 先生(物理学同窓会長・元工学部教授)
石本 浩康 先生(元理学部教授)
その他
神田 健三 様(中谷宇吉郎雪の科学館長)
井上 三郎 様(同窓会相談役・元金沢機工株式会社社長)
竹井 巖 先生(北陸大学教授・同窓生)
向 敬一 様(元技術職員)
問谷 元子様(元職員)
卒業生・修了生多数(岡本先生,川本さん,野上さん,松田さん,宮田・・・)
弔電を高橋 尚志 先生(香川大学教授・同窓生)からも頂いております.
ご葬儀の後,ご親族のお食事にお招きいただいていることもあり,金沢市東斎場に竹井先生ともどもご一緒させていただきました.私どもの年齢ともなれば,親や親族の葬儀でお骨を拾う機会も多々あります.河田先生のお骨を目にし,これまでの体験とともに,河田先生の肉体は既に地上には無く,河田先生は私達の記憶の中にのみいらっしゃることを実感致しました.もう私達は,河田先生に会うことは出来ないのですね.
最後のご親族のお食事の際,奥様には冒頭の河田先生とのエピソードをお話させて頂きました.こうやって故人を偲ぶなどして,私達は死というものを受け入れていくのでしょう.
河田先生のご冥福をお祈り致します.
河田先生を悼んで
平成7年3月 修士課程修了 戸田 英児
ここ数年、河田先生の病状について先生自身より年賀状にて報告を受けており、心配はしていましたが、ご逝去された事を聞いて改めて心にぽっかり穴が開いたような気持になり、本当に残念な知らせでした。
自分は18年間、静岡県という気候に恵まれた地域で育ち、大学は金沢大学を選びました。静岡とは全く違う気象条件に戸惑いを感じながらも、金沢に息づく伝統文化、そこに住む人々の人情に触れる度に金沢を好きになり、今では嫁の実家でもあり第二の故郷となっています。その中でも河田先生との出会いは自分の人生に大きな影響を与えてくれました。いつも笑顔で接してくれて親身になって相談に乗ってくれる優しさ、その中でも研究に対して妥協を許さない厳しさがあり、先生の元で過ごした3年間で学んだことは今の自分の考え方の基本となっていると言っても過言ではありません。
河田研究室での思い出は数多くあります。氷という身近な物質を研究対象にすることとなり、身近であるものでも分からないことがこんなにあるということを思い知らされたこと、-10度という極寒の中でのサンプル準備、徹夜での実験等、真剣に研究に向き合ったことは今でも人生の宝となっています。そして河田研と言えばなんと言ってもウォークラリー。同じ研究室の林正弘君と企画、試し歩き、運営、最後の打ち上げまで行ったことは本当に楽しい思い出となっています。
自分が大学院を卒業後、何かの縁で河田先生が趣味としていたマラソンを始めました。何年か前に嫁の実家である金沢に帰省し、金沢の街を走っていた時に、同じくジョギングをしている河田先生と偶然お会いして話をすることができました。その時が先生との最後の時間となってしまいましたが、変わらぬ優しい笑顔で接してくれた先生を忘れることができません。今思うと神様がマラソンという趣味を通して再び出会わせてくれたのだと思っています。今度は一緒の大会に出て走りたいですね、と言葉を交わしましたが、それが叶わないこととなってしまい本当に残念です。これからは先生が教えてくれたことや思い出と一緒に自分の人生の残りの距離を走って行きたいと思います。
先生、本当にお疲れ様でした。天国でゆっくり休んでください。
河田先生の教え
平成七年三月 修士課程修了 林 正弘
河田先生にお世話になったのは、教養時代の物理学の講義にはじまり、修士修了までの六年間でした。この歳になると六年間はそう長い時間ではないかもしれませんが、二十歳前後での六年間は非常に貴重な期間でした。いつも笑顔で、常におおらかな先生の姿に引かれ、戸田英児氏とともに誘電体研究室を希望したのを覚えています。ただ、おおらかなだけでなく実験とその結果には一切妥協をしない先生の姿勢は、現在教員をしている自分にとって、この上ないお手本に違いありません。
さて、そんな河田先生との思い出をいくつか書かせていただきたいと思います。
二年次の熱統計力学の講義だったような気がします。式の展開に疑問を抱いたのか、じっと考え始め納得いくまで講義は中断、「曖昧な講義はしたくない」といった河田先生の性格が垣間見えた気がしました。また、河田研に所属し間もないころ、不注意で新品の同様のデュワービンを割ってしまったことがありました。「ヤベェー!やっちまった!」と思いながら、事情を話したところ笑いながら「そうですかぁ。形あるものはいずれ無くなりますから・・・・」。そういわれ、胸を撫で下ろしたことを覚えています。その後「物は所詮無くなる。むしろ伝統や格式といったものの方が長生きする。」という言葉を耳にしたことがあります。
現在、群馬県で物理教員の立場で受験指導をしていますが、多くの宿題や残り勉強でもさせれば偏差値の2や3は上昇するでしょう。しかし、本当の学力にはならないし、将来の研究(研き究めること)にはつながらないと考えます。本人がその気になったとき、精一杯の援助と妥協のない指導を心がけています。どれだけ先生と同じことが実行できるかわかりませんが、少しでも自分自身の教え子にその考えを伝えられたらと思います。伝統や格式と同様に、「教え」も長く生き続けるものだと、この歳になって痛感しています。
先生に教えられたことは物理や実験のことばかりでなく、それを通しての人生観を教えられたような気がします。河田修二先生お疲れさまです。そして、本当にありがとうございました。
河田先生を悼んで
平成九年三月 修士課程修了 松田 吉弘
自分は河田先生と年賀状のやりとりをしていましたので、先生の体調が芳しくないことは知っておりましたが、大切な恩師がご逝去されたことはやはり非常にショックでした。先生の訃報を受けお通夜に参列させていただくと、学生だった当時の思い出があふれてきました。
自分は河田先生の誘電体研究室に、学部と修士の合計3年間所属していたのですが、河田先生はいつもニコニコと笑顔で自分たち学生に接してくださり、研究室での3年間はとても充実していました。
河田先生の誘電体研究室の思い出は色々あります。研究についてはとても厳しく、確信が持てるまで実験を何度も繰り返し行うよう、自分たちに指導されていたことを思い出します。
そして一番印象深いのは、やはりウォークラリーです。ウォークラリーのコース案を作り河田先生に「これでいいですか?」とお伺いをたてると、「30km以上は歩かないと。」と言われ、「え?そんなに歩くの?」と思いながらコースを変更したことを思い出します。
その他にも、三口新町にあった河田先生の自宅で花火を鑑賞させていただいたこと、「松田君、人の卒論手伝っている場合じゃないよ。」と注意されたこと、「雑用も一つしかないとなかなか取りかからないけど、たくさんあるとすぐ取りかかって、結局、早く終わるんだよ。」と言われていたこと等、いろいろと思い出があふれてきます。
自分は今、石川県庁職員として働いていますが、仕事に対する心構えは河田先生の下で学んだと思っています。河田先生がいなければ今の自分はあり得ません。
河田先生、長い間お疲れさまでした。そしてありがとうございました。